ルナトリウム
文学部大学生♂・シュウのモラトリアム日記。詩(投稿自由)とか小説とかもありますよ。

シリアル・キリングする夢。自分で見ておいて、脈を激しくするほど切迫した夢。
そんな願望は意識下には全く無いのだが、立てこもり犯をやる夢なんかは、見ると嫌な汗をかく。起きてみると久しぶりの晴れ間で、思わずPCを立ち上げて出かけ先を調べたりしながら、モーサムの『マカロニ』を聴き出したりする。あたかも陰惨な夢を中和するように、牧歌的に甘ったるいパンでも食らいたがるように。

夢は、実はすごく物質的にぼくたちに関わっていて、脳を飛び出してぼくたちを取り巻いている。そうして無意識の選択に影響してきて、左に行っても右に行ってもいいときに、どちらかを決定させる力を持っている。それは確かな運動であり、ぼくたちは抗えない。
順番に逆らう術も、運命を変える権利も、寿命を引き延ばすこともぼくたちには不可能事なのかもしれない。麻雀のような《整った列にのっとる》遊びのなか、ぼくたちは権謀の脆さを知る。
人は、パーソナルな闘いを奨励している。かつての価値観では私闘など恥ずべきものだったんだろうが、学生紛争以降か尾崎豊以降か、個人による正当な理由付けのある闘いは、社会において一応カッコイイものとして通っている。そんな闘いの理想的に美しいフォルムというのは、中島みゆきの『ファイト!』なのだろうが、とにかく「社会の歯車になんかなりたくない!」とか「教師に僕たちを縛ることなんて出来ない!」「金のために生きてるんじゃない!」「願いを叶えるんだ!」と声高に唱えることは、本人の意図と関係なく《周囲》によって「闘い」としてパッケージングされてしまう。ぼくは詩を書くことで何かと闘いたいと思うが「そーやってわかりやすいカタチにとってもらいたくないなー」とガキくさいことを考える。

自分の夢との相克は、誰にも真に理解してもらえないために面白く、貴重で、占有できる聖域であり、その実自分にも正体が分からない。ぼくたちは理性を持つ限り夢と闘えるのだ。決して理解できないものと流血の戦闘を繰り返し、楽しく血なまぐさく生きていける。

くるりの『ガロン』はこんなにいい曲だったろうか? なんだかクールなくせに馴れ馴れしくて、非常に不愉快なんだけど笑って許せるおかしみがある。



  1. 2008/08/27(水) 09:53:36|
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ボアダム

ぼくは新木場にソニックユースとのジョイントを観に行って「まあソニックユースが後に控えてるし、ボアダムスは抑え気味で見ようかな」とか偉そうにしていたがステージの後半には前列で踊り狂い大汗をかいた経験がある。
ルーツが割と近いところにあるスペースロックバンド・ROVOが、洗練したサウンドで造形美術的に《宇宙》を体現していくのに対して、ボアダムスはとにかくプリミティヴであって、シンプルに本質だけを浮かび上がらせた結果、宇宙的なイメージとしての輪廻観とかナチュラリズムを感じ取れるバンドである。この辺は生で見ないと実感できないし、あくまで個人的な体感なんだけど。

そんなボアダムスが、07年7月7日に、N.Y.でドラマーを77人集めて一斉に演奏するというクレイジー極まるイベントを敢行(今年は8月8日に88人でやったらしい)。今回ぼくが観に行ったのはこのイベントのドキュメント『77BOADRUM』である。以下感想覚書。

練習の模様とかセッティングとか、プレイヤーへの簡単なインタビューの分量がかなり適切。ただでさえ集中して観ないと面白くない(かわりに集中して観るととんでもなくトぶ)演奏形態だけに、小休止としてそういうクリップが功を奏していて、バランスはとても良い。
あとは「77人がドラムを叩く」様にどれだけ興味を持てるかで、ほぼ作品への評価が決まると思う。興味の大きさに感動が比例する、とんでもない映画だといえる。「興味」であって、間違っても「期待」ではない。的外れな期待を余さず満たす、という意味で言っているのではない。

宇宙空間を思わせるCGカットがイントロなのだが、その時に鳴り響く音がある。黒基調のカットとあいまって、残響を効かせた電子音にも聴こえるが、よくよく聴いてみるとシンバルの連打の音だと気づく。たぶん「ドラムがキーになっている」と知らずに観ていれば、もっと気づくのに時間がかかっただろう。
そのうち演奏シーンを観ていると、フレームインしているドラマー以外の演奏音が気になりだす。勿論そうすると、映し出されているドラマーの手の動きと音が噛み合わなくなる。その中で自分の集中のボルテージが上がっていくと、徐々に共感覚が生じてきて、音を聴いているのだか音を見ているのだか分からない感覚に陥る。もともとぼくたちは日常的に「音を見る」行為を行なえる。ステレオで音を聴いている時、片方のスピーカーを見つめると、主旋律がそちらのスピーカーだけから出ているように体感できるアレである。アレが自然発生的に起こる。
音が見え、そうして発散されるエナジーをも見る感覚はライブぐらいでないと味わえないと思っていたが、まさか映像を見て実感できるとは思わなかった。ただ77BOADRUMを生で観たい、という願望はそこまで強くない。あのイベントを真に楽しむには自分も叩くしかないんだろう。参加できたらすぐ死んでもいい。

感動的だったのは、客のノリが日本人とほとんど変わらなかったこと。ボアダムスを生で観た人間は、わけのわからない踊りをせずにはいられなくて、リーダーであるアイの声は、教祖への適性が窺えるほど明快である。自然に踊りを強いる彼らのパフォーマンスは純粋に音楽とは呼べない。あれは一種の宗教になりうる。
以前書いた、新木場で彼らを観た感想を見てみたら「何かを伝えようというのではなく、演奏によって広げたものに観客を取り込んでいる気がした」とあった。今でもそう思う。スピリチュアルなものというのは、指導者が人々へと教え啓蒙するものではないと思う。むしろ彼らのアプローチのように、何をか提示して、その中で「気づかせる」ことにこそ真の意義があるんじゃないだろうか。ひとりの神秘体験者が人々を従えるのではなく、体験の場を提供すること……。

話が逸れましたが、とても良い映画でした。ボアダムスをあらかじめ知っている人にしか思い切り勧められない作品でしたがね!



  1. 2008/08/25(月) 23:39:38|
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しばらくのあいだ、ここではマンガの話をしてないんですが、ここ一年死ぬほど読んでます。ちょうど去年の夏に、よしながふみの『西洋骨董洋菓子店』を全巻買いして以来少女マンガに転じていて、ぼくの部屋の小さい本棚が一つ少女マンガ(および女性作家作品)専用になってます。

アフタヌーン作家ばりに画力に馬力がある作家もいるんですが、少年誌と比べても作画にウェイトを置いていないというか、作画全体に求められてる水準は、やはりというか少女マンガのほうが低いんですが、その分作品としてのクオリティが高い。やっぱしネーム(セリフとかモノローグとか)が少ないほうがマンガは必然的に面白くなるんですなあ。
そこのところ、くらもちふさこのマンガは天才的で、いろんなタイプの感動を端的なかたちにしていて素直に感動します。

魅力的なキャラクタや汎用性の高い設定を発想して、エンターテイメントにまで洗練させていくのが少年マンガなら、日常の発見とか、人から受けた傷とか、自分が突き止めた一つの完成された感動を作品の中に織り込んでいくのが少女マンガであると思います。その点で、オトコが思っているより少女マンガの敷居というのは高くなく、むしろ似たような回路で創作している男性というのは多い気がします。ぼくがそうなのかもしれないと自覚しているからなんですが。



  1. 2008/08/19(火) 16:07:45|
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水考

自らの組織の過半量を占める物質であるとか、アルケーと定められていたとかいう概念は、昨今ひとびとの認識からいくらか遠ざかってしまったと思うので、そろそろぼくたちは新しく「水」のイメージを持たねばならない。

ぼくたちはどうしても資本とか商業主義といった環境からは脱却できない。カウンター・カルチャーにおいて脱却しようとがんばっている人もまた、そういった環境を強く意識しているという点で、無縁の存在とは呼べない。そんな環境の中で、水というのは自然界のものとか自然発生的なものとかという認識から離れて、人為的に濾過されていることこそがあるべき姿であるというような認識をなされ始めている。蛇口を捻りあふれてくる水こそが生活上ふさわしいかたちの「水」であり、生活は現代人間にとっての重要なよりどころである。では川や海における水、本来的な水というのは現代どう知覚されているといえるか。
差異から解答を見出すとすれば、本来的な水は、運動体であり、人間にとって不如意のものである。浄水というフォーマットを経ておらず、人為的な動力を持たないまま運動する存在。降雨の結果によっては災害となる存在である。
人間はある程度自然を従属させて生活を円滑にしようと努力しているが、火や風と違い、水とは万物の基礎的成分であるという属性を持つため、その圧倒的な物量によって他の自然要素とは異なるものになっている。多くの物量を持つということは、ある程度消費できるということだ。

水は特殊な「飲料」――消耗品たりえている。処によってはウォーター・クーラーなるものがあって、ペダルを踏みさえすれば冷たく清潔な水を無料で入手できる。ボトル詰めの水が売られることには、少なくとも日本では、数十年前から抵抗があったようだが、現代ではほとんど当然のことになってきている。今では、いずれのメーカーの水もある程度廉価で手に入るようになっている。
美食が人間にとってひとつの社会的なグレードを示す上で、まず「修飾的な味覚」に照らすと、水は娯楽性に乏しい飲料である。調味されていない飲食物というのは現代において、特に金銭的節制という点ではとてもストイックだ。健康管理やダイエットに利用される点からも、ストイックといえる。
食品というのは直接摂取するものであるから、常にクオリティを求められ、そのために滅菌され調整されるものだが、「水」はある程度の加工を経ながら、他のいかなる飲食物よりも格別自然物に近い。そこには、自然要素の濃いものを体内に取り入れて、少しでもディトックスして、自分のからだという有機的な物体を自然要素に近づけていこうという人の意識を感じる。

「水は万物の起源である」、水はアルケーであるという概念は(不当であるとして)一度ひとから離れた後に、もう一度、今度はより実際的に回帰してきているように思える。



  1. 2008/08/02(土) 14:08:50|
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